ジャズの歴史#2:1930s-1940s|スウィングジャズとビッグバンド時代

逆光でのなか演奏するジャズマンたちをバックにHistory of Jazz #2 の文字

ジャズが本当に「大衆音楽」になったのは1930年代に入ってからだ。ニューオーリンズで生まれ、シカゴで洗練されたジャズは、まだ「都会の洒落た音楽」程度の立ち位置だった。しかし、ここからジャズは一気にスケールアップする。

ビッグバンドが登場し、ホーンセクションが唸りを上げ、ベースとドラムがタイトなリズムを刻む

人々はジャズを聴くだけではなく、踊るようになった。スウィングジャズの誕生だ。

ベニー・グッドマン(Benny Goodman)、カウント・ベイシー(Count Basie)、デューク・エリントン(Duke Ellington)といったバンドリーダーたちがシーンを支配し、ラジオを通じてアメリカ中にジャズが鳴り響いた。

この時代のジャズは、まさに「音楽が人を動かす」瞬間だった。ジャズが世界をスウィングさせた、その時代を追っていこう。

前の記事

スウィングジャズの誕生

スウィング・ジャズは、ダンスホールを熱狂させた「踊れるジャズ」だ。特徴は、軽快な4ビートのグルーヴと、バンド全体のタイトなアンサンブル。ベースがウォーキングラインを刻み、ドラムがスウィング感あふれるリズムを生み出し、ホーンセクションが分厚いハーモニーを奏でる。

1920年代のジャズは、ルイ・アームストロングの革新によって、ソロの即興が主役となった。それまでのニューオーリンズ・ジャズの集団即興から、個々のミュージシャンが前面に出るスタイルへと発展した。しかし、スウィングの時代に入ると、バンド全体の一体感がより重視され、緻密にアレンジされた演奏が主流に。ダンスとの相性が抜群で、ジャズはクラブの隅で静かに聴く音楽から、フロアで踊る音楽へと変化していった。

スウィングジャズが生まれた背景

1929年の大恐慌で落ち込んだアメリカでは、音楽が人々の心を癒す重要な役割を担った。1930年代に入ると景気が回復し、社交ダンスが流行。ラジオの普及もあり、スウィングは一気に全国へ広がった。

スウィングは「楽しく踊れる音楽」として求められ、夜な夜なダンスホールで演奏されるようになる。音楽が人を動かす時代がやってきた。

スウィングジャズの先駆者たち

1920年代の即興中心のジャズから、バンド全体の一体感を重視したスタイルへと進化していく中、その変革の中心にいたのがアレンジの革新者たちだ。彼らはジャズのリズムをよりスムーズにし、アンサンブルの精度を高め、ダンスホールに最適な音楽を作り上げた。

フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson)|スウィングの礎を築いたアレンジャー

フレッチャー・ヘンダーソン(Fletcher Henderson)は、ホーンセクションを活かしたアレンジを確立し、スウィングの基礎を作った先駆者だ。1926年の「The Stampede」では、ジャズ・アンサンブルの新たな形を提示し、洗練されたリズムとホーンの掛け合いを重視するスタイルを確立した。

1930年代に入ると、彼のアレンジはベニー・グッドマン(Benny Goodman)に採用され、スウィングを全米に広める決定打となった。特に「King Porter Stomp」(1935年)は、グッドマン楽団の演奏によって爆発的な人気を博し、スウィング時代の幕開けを告げる曲となった。

また、1924年にはルイ・アームストロングを自身のバンドに迎え、ジャズのリズムと表現を進化させるきっかけを作った。ヘンダーソンの革新的なアレンジは、スウィング・ジャズの骨格を作り、1930年代のジャズ黄金時代を築く礎となった。

デューク・エリントン(Duke Ellington)|ジャズを芸術へと昇華

デューク・エリントン(Duke Ellington)は、スウィングを「芸術」にまで押し上げた革新者だ。バンドメンバーの個性を最大限に引き出す作曲を行い、都会的な洗練とブルースの泥臭さが見事に共存するサウンドを作り上げた。「Take the “A” Train」「Mood Indigo」など、彼の名曲は今もなお多くの人々に愛され、ジャズのスタンダードとして広く演奏され続けている。

スウィングジャズは、単なるダンスミュージックではなく、社会の変化とともに進化した音楽だった。この波は1930年代を席巻し、ジャズは黄金時代を迎えることになる。

ビッグバンド時代の到来

スウィングジャズの爆発的な流行とともに、バンドの編成も大規模になった。

いわゆる「ビッグバンド」の時代が到来する。

ビッグバンドの基本は、リズムセクションとホーンセクションの組み合わせだ。リズムセクションはピアノ、ベース、ドラム、ギターで構成され、スウィングのグルーヴを支える。特にウォーキングベースのラインと軽快なハイハットの刻みが生み出す4ビートのノリは、スウィングの要となった。

ホーンセクションはサックス、トランペット、トロンボーンで構成され、厚みのあるハーモニーとパワフルなブラスサウンドを生み出す。ソロパートもあるが、ビッグバンドではアンサンブルが主役。タイトなブラスのリフと、キレのあるユニゾンが特徴だった。

ラジオとレコードの影響

ビッグバンド時代を支えたのは、ラジオとレコードだった。スウィングジャズは、都市部のクラブやダンスホールだけでなく、ラジオ放送を通じて全米へと広がった。1930年代にはライブ演奏の生中継が盛んになり、家庭でもリアルタイムでビッグバンドの演奏を楽しめるようになった。

レコード産業もスウィングの拡大に貢献した。短時間でエネルギッシュな演奏を収めるスタイルが確立され、人気バンドのレコードは爆発的に売れた。スウィングは、まさに「聴く音楽」から「踊る音楽」へ、そして「全国の誰もが楽しむ音楽」へと進化していった。

代表的なビッグバンドのリーダーと楽団

ビッグバンド時代には、数多くの優れたバンドリーダーが登場し、それぞれが独自のスタイルでジャズの音楽シーンを盛り上げた。彼らは、演奏技術の向上とジャズの発展に大きく貢献し、ジャズを一大ムーブメントへと押し上げた。各バンドは、独特なアレンジと演奏スタイルを通じて、スウィングジャズの進化を牽引した。

ベニー・グッドマン(Benny Goodman)|「キング・オブ・スウィング」

スウィングジャズを全国区のブームに押し上げたのが、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)だった。彼のバンドは、完璧にアレンジされたアンサンブルと、スリリングなソロが共存するスタイルで圧倒的な人気を誇った。グッドマン楽団の最も有名な曲のひとつが「Sing, Sing, Sing」 (1937年)だ。エネルギッシュなリズムとスウィング感が特徴的なこの曲は、ジャズのスタンダードとして今も多くのミュージシャンによって演奏されている。

1938年のカーネギーホール公演は、スウィングが芸術として認められた瞬間だった。クラシック音楽の殿堂であるカーネギーホールに、ジャズが堂々と乗り込んだのだ。このライブの影響で、ジャズはもはや「クラブやダンスホールだけの音楽」ではなくなった。

グレン・ミラー(Glenn Miller)|洗練されたアレンジとヒット曲の量産

グレン・ミラー(Glenn Miller)は、スウィングジャズをより洗練されたポピュラーミュージックへと昇華させた。彼のバンドは、完璧にアレンジされたハーモニーと、シンプルでキャッチーなメロディが特徴だった。

In the MoodMoonlight Serenade といった曲は、今でもスウィングジャズの代表曲として知られている。戦時中には軍楽隊を結成し、兵士たちを鼓舞する音楽を提供した。彼の音楽はエンターテイメントとしてのジャズの完成形とも言える。

カウント・ベイシー(Count Basie)|ブルージーでグルーヴ感のあるスウィング

カウント・ベイシー(Count Basie)は、スウィングにブルースの要素を大胆に取り入れ、よりグルーヴィーなスタイルを確立した。彼のバンドは、タイトなリズムと、シンプルながら強烈にスウィングするサウンドで人気を博した。

特に、彼のピアノスタイルは「コンピング」と呼ばれる独特のバッキング技術を駆使しており、スウィングジャズのリズムにさらなる躍動感を加えた。エネルギッシュなホーンリフとブルースのフィーリングが融合したサウンドは、聴くだけで思わず体が動くような魅力があった。


ビッグバンド時代は、スウィングジャズが大衆文化の中心にいた時代だった。ラジオの電波に乗り、ダンスホールを埋め尽くし、人々の心と体を動かした。このスウィングの熱狂は、やがてジャズの進化をさらに加速させていく。

ジャズと社会:アフリカ系アメリカ人とスウィングジャズ

スウィングジャズは、ダンスホールを沸かせたポピュラーな音楽だったが、その裏には人種差別の壁があった。1930年代のアメリカではジム・クロウ法による人種隔離が続いており、黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンは、同じ舞台に立つことすら難しい状況だった。

黒人バンドと白人バンドは、明確に分けられていた。デューク・エリントンカウント・ベイシーのような黒人バンドは、一流の演奏技術を持ちながらも、多くのクラブやラジオ放送から締め出されることが多かった。一方で、白人バンドの方が商業的に成功しやすいという現実があった。黒人ミュージシャンが作り上げたスウィングが、白人バンドによって「大衆向け」にアレンジされることも珍しくなかった。

人種統合への道

こうした状況を打破する動きもあった。その先駆者のひとりが、ベニー・グッドマンだった。彼は、自らのバンドに黒人ピアニストの テディ・ウィルソン(Teddy Wilson)やヴィブラフォン奏者の ライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton)を起用し、白人バンドと黒人ミュージシャンが共演するスタイルを確立した。これは当時としては画期的で、ジャズの世界における人種の壁を少しずつ崩すきっかけとなった。

この流れは、カウント・ベイシー楽団やデューク・エリントン楽団の成功とも相まって、黒人ミュージシャンの評価を高めることにつながった。スウィングの世界では、次第に「良い音楽を演奏できるかどうか」が重視されるようになり、白人と黒人が同じバンドで演奏するケースが増えていった。

第二次世界大戦とジャズ

1940年代に入ると、第二次世界大戦がジャズシーンにも大きな影響を与えた。戦争によって国全体が動員体制に入り、音楽業界も変化を余儀なくされた。

まず、戦時中の娯楽需要が急増した。戦争のストレスから解放される手段として、音楽は欠かせないものだった。クラブやダンスホールは依然として賑わい、ラジオでもスウィングジャズが頻繁に流された。戦争の最中でも、人々は音楽を求め続けた。

しかし、多くのミュージシャンが徴兵され、バンド活動が難しくなった。特に大編成のビッグバンドは、人手不足に直面した。また、ガソリンの配給制限によりツアーが難しくなり、多くのバンドが解散を余儀なくされた。

一方で、戦時中に結成された軍楽隊が、ジャズの普及に貢献することにもなった。USO(United Service Organizationsーエンターテイメントをアメリカ軍兵士やその家族に対し提供するNPO団体)のツアーでは、ジャズバンドが戦地の兵士たちを慰問し、スウィングジャズを演奏した。グレン・ミラーはその代表的な存在であり、彼の軍楽隊はヨーロッパ戦線の兵士たちにジャズを届けた。


スウィングジャズは、音楽としての楽しさだけでなく、社会の変化とも密接に結びついていた。人種の壁を越えようとする試み、戦争による音楽業界の変化——ジャズは常に時代とともに進化していた。そして、このスウィングの時代は、やがて次の大きな変革を迎えることになる。

ビバップの誕生とスウィングジャズの衰退

1940年代に入ると、スウィングジャズの人気は続いていたものの、その枠組みに限界を感じるミュージシャンも増えていた。彼らは、より自由で創造的な音楽を求め、アドリブを重視した新たなスタイルを模索し始める。その結果生まれたのが、ビバップだ。

ビバップは、スウィングのダンス向けの要素を削り、速いテンポと複雑なコード進行、即興演奏を中心に据えたスタイルで、ニューヨークの小さなクラブから次第に広がっていく。スウィングが大衆向けのエンターテイメントだったのに対し、ビバップはよりアートとしての要素を強調し、聴き手にも高度な理解を求める音楽へと変化した。

こうして、スウィングジャズの黄金時代が終わりを迎え、ジャズは新たな進化を遂げることとなる。

レコード禁止令とビッグバンドの衰退

1942年、ミュージシャンズ・ユニオンがストライキを決行し、新たなレコーディングを全面禁止するという事態が起こった。これは、レコード会社に対し、演奏者に適切な報酬を支払うよう求めたものだったが、この影響でビッグバンドは大きな打撃を受けた。

加えて、第二次世界大戦による人員不足でツアーが困難な状況も重なり、ビッグバンドの維持が困難になっていく。その結果、小編成のコンボスタイルが主流になり、ビバップの流れが加速していった。

ビッグバンドの存続と変化

スウィング時代のビッグバンドが全て消えたわけではない。デューク・エリントンやカウント・ベイシーは、ビッグバンドの形式を維持しつつも、時代の流れに合わせた音楽を生み出し続けた。

一方で、多くのビッグバンドは、ジャズの純粋な即興性よりも、エンターテイメント性を強めたポップミュージックへとシフトしていった。こうして、スウィングの黄金時代は終焉を迎え、ジャズは新たな時代へと突入することになる。

スウィングジャズとビッグバンドの時代は、ジャズが大衆音楽の中心にあった時代だった。ダンスホールでは、ホーンセクションが鳴り響き、ビッグバンドのタイトなリズムに乗って人々が踊った。デューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラーといったバンドリーダーたちは、それぞれのスタイルでジャズを進化させ、エンターテイメントの象徴となった。

しかし、時代の流れとともに音楽も変わる。戦争による影響や、ミュージシャンたちの新たな探求心によって、スウィングとは違う方向へと進むジャズが生まれた。スウィングが支配していた音楽シーンも、やがて新しい波へと移り変わっていく。それでも、この時代に築かれたグルーヴとアレンジの美学は、ジャズの枠を超えて多くの音楽に影響を与え続けた。

次の記事

タイトルとURLをコピーしました