1980年代後半、イギリスでは若者たちの間で熱狂的な音楽のムーブメントが巻き起こっていた。
アシッドハウスとレイブカルチャーの誕生だ。
クラブの枠を超え、倉庫や野外で秘密裏に開催されたレイブパーティーは、単なる音楽イベントではなかった。それは、政治や社会に対する反発と新しい自由の象徴だった。
そして1988年から1989年にかけてのセカンド・サマー・オブ・ラブでは、ダンスミュージックとエクスタシーが生み出した熱狂がイギリス全土を席巻し、政府による規制を招くほどの影響を及ぼした。
レイブカルチャーはどのように誕生し、どのように社会を揺るがしていったのか。アシッドハウスの起源から、レイブの精神を生んだ社会背景、そしてイギリスのクラブシーンの変遷まで、時代の流れとともに振り返っていこう。
レイブカルチャーの誕生と当時の社会背景(1980年代中盤)
1980年代後半のイギリスでは、アシッドハウスやテクノを中心とする音楽ムーブメントが猛威を振るった。その背景には、当時の政治・経済状況、クラブシーンの変遷、そしてシカゴやイビサからの音楽的な影響がある。
音楽の革新やナイトライフの拡大は若者達の文化の変化と相まって、レイブムーブメントへと発展していき、1988-89年には「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる現象を巻き起こした。そしてこのムーブメントは、後のイギリスをはじめとする世界の音楽シーンとナイトライフに決定的な影響を与えることになる。
1980年代のイギリス:政治・経済・社会的な背景
サッチャー政権(1979-1990)と社会の変化
1980年代のイギリスは、マーガレット・サッチャー政権のもと、新自由主義的な政策が推進された。国営企業の民営化、規制緩和、労働組合の権限縮小が進められ、ロンドンの金融市場は「ビッグバン」と呼ばれる改革によって国際競争力を強化した。一方で、製造業の衰退や地方都市の経済低迷が深刻化し、労働者階級の失業率は上昇していく。
鉱夫ストライキ(1984-1985)と社会分断
特に1984年から1985年にかけての鉱夫ストライキは、政府と労働者の対立を決定的なものとし、社会の分断を象徴する出来事となった。政府は強硬姿勢で臨み、ストライキは最終的に失敗に終わるが、その影響で多くの炭鉱が閉鎖され、労働者層の不満は高まる結果に。こうした状況の中、若者たちは伝統的な社会システムに対する不信感を募らせ、新たなコミュニティや文化を模索するようになってゆく。
都市部の荒廃とナイトライフの発展
都市部では貧困や失業が増加する一方で、ロンドンやマンチェスターなどの大都市ではクラブシーンが拡大しつつあった。音楽は、社会的閉塞感からの解放を求める若者にとって、逃避と連帯の場を提供した。 こうして、ナイトライフは単なる娯楽ではなく、文化へと発展し若者にとっての自己表現の場としての役割を強めていった。
シカゴ発アシッドハウスとイビサからの影響

アシッドハウスの誕生とTB-303の革新
レイブ文化の音楽的基盤は、1980年代半ばにシカゴで誕生したアシッドハウスにある。アシッドハウスの象徴的なサウンドは、Roland TB-303 ベースシンセサイザーによって生み出された。
スケルチー(Squelchy)と表現されるTB-303の独特な鋭くうねった音色は、発売当初は失敗作と見なされていたが、シカゴのハウスユニット Phuture のDJ Pierre、Earl “Spanky” Smith、Herb Jらがこの機材を活用し、1987年に Acid Tracks を発表したことで、アシッドハウスという新たなジャンルが確立された。
アシッドハウスの特徴
TB-303のフィルターを使ったうねるようなベースライン
シンプルながら反復的でトランス状態を誘発するビート
ミニマルでありながらダンスフロアでの没入感を強調したサウンドデザイン
シカゴのクラブシーンからの影響
シカゴでは、The Warehouse や Music Box などのクラブでアシッドハウスがプレイされ、Frankie Knuckles や Ron Hardy といったDJ達がその普及を牽引した。この音楽はすぐにヨーロッパのDJたちに発見され、イギリスへと持ち込まれることとなる。
イビサのクラブカルチャーとUKのDJたちの覚醒
1987年、イギリスのDJたち(Danny Rampling、Paul Oakenfold、Nicky Holloway、Johnny Walker)がイビサを訪れ、クラブ Amnesia で DJ Alfredo のプレイに衝撃を受ける。
Alfredoのプレイスタイルはジャンルの枠を超え、シカゴハウス、ディスコ、ロック、ラテンミュージックをミックスした「バレアリック・ビート」を特徴とするものであった。
この体験を持ち帰った彼らは、イギリスでのアシッドハウス革命の引き金を引くこととなる。特にDanny Rampling はロンドンで Shoom というクラブを開き、アシッドハウスを本格的に紹介した。
イギリスにおける初期レイブシーンの誕生:ShoomとHacienda
Shoom(1987-1990)
Danny Rampling が1987年にロンドンで設立したクラブ Shoom は、イギリスにおけるアシッドハウスの発信基地となった。狭い倉庫スペースで、ストロボライトとスモークに包まれながら、TB-303が唸るダンスフロアには、エクスタシーによる高揚感と一体感が満ち溢れていた。
Hacienda(1982-1997)
マンチェスターの Hacienda は、Factory Records と New Order が運営するクラブとして、アシッドハウスの中心地となった。元々はニューウェーブやインディーロックのライブハウスだったが、1988年以降、アシッドハウスに特化するようになり、レイブムーブメントを支える拠点となった。
違法倉庫パーティーの増加とDIY精神
アシッドハウスの普及とともに、ロンドンやマンチェスターでは、クラブの枠を超えた違法倉庫パーティー(warehouse party)が増加していった。警察の取り締まりを避けるため、秘密のロケーションで開催され、口コミやテレホンラインで情報が共有された。この時期に確立されたDIY精神は、のちのフリーパーティー文化に大きな影響を与えることとなる。
レイブによって変化した若者のファッション
レイブカルチャーは音楽だけでなく、若者たちのファッションにも大きな影響を与え、蛍光色やサイケデリックなデザインが施されたファッションはレイバー達の自由・快適を主張する自己表現の手段となっていった。
レイブの象徴となったスマイリーフェイス
「ポジティブなバイブス」や「ユートピア的な一体感」を象徴したスマイリーフェイスはTシャツやステッカー、フライヤーなどあらゆるアイテムに使用された。
長時間踊り狂うレイバー達には動きやすいダボダボのバギーパンツやスポーツウェアが好まれ、
Nike, Adidas, Kappa などのトラックスーツに Air Max, Reebok Classic などのスニーカーはクラブでも野外でも定番のスタイルとなった。
視覚的なトリップを演出する蛍光色やサイケデリックなデザインが施されたカラフルなアイテムが流行し、蛍光Tシャツやネオンカラーのブレスレットがレイバー達の定番アイテムとなってく。
レイブ文化の黎明期に活躍したDJたち(1980年代中盤~1989年)
レイブ文化の基盤となったアシッドハウスの隆盛には、シカゴとイギリスのDJたちの革新的なプレイが不可欠だった。シカゴのアンダーグラウンドクラブで誕生し、イビサを経由してUKへと持ち込まれたアシッドハウスは1980年代後半にかけてロンドンやマンチェスターのクラブシーンを変革していく。
初期アシッドハウスの立役者
DJ Pierre(Phuture)
アシッドハウスの誕生において、DJ Pierre(本名:Nathaniel Pierre Jones)の貢献は計り知れない。彼は1985年、シカゴのアンダーグラウンドハウスシーンの一員として活動し、Roland TB-303を駆使した画期的なサウンドを生み出した。
1987年にPhuture名義でリリースされた Acid Tracks は、アシッドハウスの原点とされる楽曲だ。このトラックでは、TB-303のフィルターとレゾナンスを活用し、うねるような、スケルチーなベースラインを生み出した。この革新的な音色は、当時のシカゴハウスとは一線を画し、のちにアシッドハウスの代名詞となる。
DJ Pierreのスタイルは、エネルギッシュでありながらもサイケデリックな要素を持ち、ダンスフロアを陶酔的な空間へと変貌させるものでだった。彼の影響はシカゴの枠を超え、イギリスのDJたちにも大きな衝撃を与えた。
Frankie Knuckles(The Warehouse, シカゴ)
「ハウスのゴッドファーザー」と称される Frankie Knuckles は、アシッドハウスというよりも、シカゴハウス全体の礎を築いたDJだ。彼は1977年にシカゴの伝説的クラブ The Warehouse でプレイを開始し、ディスコとエレクトロニックミュージックを融合させた独自のスタイルを確立した。
Frankie Knuckles のDJプレイは、ソウルフルかつエモーショナルであり、シンセサイザーを駆使したハウストラックの誕生を促した。彼のスタイルは、シカゴのダンスミュージックを根底から変革し、アシッドハウスやUKハウスの誕生にも影響を与えた。また、彼のミックステープやプロデュースワークは、イギリスのDJたちがシカゴハウスを発見するきっかけとなり、アシッドハウスの普及に大きく貢献した。
Ron Hardy(Music Box, シカゴ)
シカゴのアンダーグラウンドクラブ Music Box のカリスマDJ、Ron Hardy は、アシッドハウスの原型を作った人物の一人。彼のセットは実験的かつエクスペリメンタルで、従来のハウスとは一線を画すものだった。
Ron Hardy は、Phutureの Acid Tracks を最初にプレイしたDJとしても知られている。彼はこのトラックを Music Box のダンスフロアで繰り返し流し、フロアの反応を確かめながらアシッドハウスの可能性を広げていった。彼のプレイスタイルは激しく、テンポを自在に操る独特のDJミックスで、UKのDJたちがイビサへ向かう前に体感した重要な要素だった。
UKでアシッドハウスを広めたDJたち
Danny Rampling(Shoom, ロンドン)
Danny Rampling はイギリスのアシッドハウス革命の先駆者。1987年のイビサ旅行でDJ Alfredo のプレイに感銘を受けた彼は、ロンドンに戻るとすぐに Shoom を設立し、アシッドハウスを本格的に紹介した。
Shoomは、ロンドンのアンダーグラウンドクラブシーンにおいて、エクスタシーとアシッドハウスの融合を象徴する存在となった。Danny Rampling はイビサで体験した自由な雰囲気をそのまま持ち込み、ダンスフロアに新たな精神性をもたらした。
Paul Oakenfold(Future, Spectrum)
Paul Oakenfold もまた、イビサで DJ Alfredo の影響を受け、UKにバレアリック・ビートを持ち帰ったDJの一人だ。彼は1987年、ロンドンのクラブ Future と Spectrum を拠点に、バレアリック・ビートとアシッドハウスを融合させたイベントを開催した。
Oakenfold の特徴は、ジャンルを超越した選曲にあった。彼のセットは、シカゴハウスやアシッドハウスだけでなく、ロック、ニューウェーブ、ディスコを取り入れ、イギリスのクラブシーンに新たな方向性を示した。彼の影響により、アシッドハウスはより広範な音楽リスナーに受け入れられるようになった。
Trevor Fung
Trevor Fung は、ロンドンのクラブシーンで活躍し、バレアリック・ビートとアシッドハウスの融合を試みたDJだ。彼は Paul Oakenfold とともにイビサを訪れ、現地の音楽スタイルをUKのシーンに適応させた。
彼のプレイスタイルは、よりメロディックでグルーヴィーなハウスに焦点を当てており、アシッドハウスの普及において重要な役割を果たした。
Graeme Park & Mike Pickering(The Haçienda, マンチェスター)
マンチェスターの伝説的クラブ The Haçienda は、アシッドハウスのUK北部における中心地となった。そのレジデントDJであった Graeme Park と Mike Pickering はアシッドハウスのサウンドをマンチェスターに根付かせることに成功した。
彼らは、シカゴハウスやアシッドハウスを積極的にプレイし、北部イギリスのクラブシーンを革新していく。特に Mike Pickering は、後にM Peopleを結成し、ダンスミュージックシーンにおいて商業的成功を収めることとなる。
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