レゲエとダブ:サウンドシステムが音楽を変えた:#1 誕生と進化

ラスタカラーの背景に ‘CREATION’ の文字

レゲエとダブの起源は、1950年代から1960年代にかけてのジャマイカに遡る。この小さなカリブの島国で生まれた音楽は、やがて海を越え世界中に広がり、多くの音楽ジャンルに影響を与えることとなった。その中でも、サウンドシステム文化の発展とともに育まれたレゲエとダブは、UKの音楽シーンに多大な影響を及ぼし、新たな音楽ムーブメントを生み出す原動力となった。そんなレゲエとダブの歴史を、ジャマイカでの誕生からUKへの広がりまで追っていく。

レゲエとダブの誕生:ジャマイカからUKへ

ジャマイカの音楽は、初期のリズム&ブルース(R&B)やスカから始まり、ロックステディ、そしてレゲエへと進化してきた。ダブはその過程で誕生し、エフェクトやリミックス技術を駆使した独自の表現方法を確立する。この音楽はどのようにして生まれ、どのようにUKへと伝播していったのか?

サウンドシステム文化の台頭とジャマイカ移民の背景

1950年代のジャマイカでは、地元の人々が最新のアメリカ産R&Bやブルースを楽しむために、大型スピーカーを用いた移動型の音響装置、いわゆる「サウンドシステム」が発展し始めた。当時のジャマイカではラジオ放送の普及率が低く、レコードを購入する余裕がある人々も限られていたため、サウンドシステムは庶民にとって音楽を楽しむ貴重な機会を提供していた。

サウンドシステムのオペレーターたちは、競い合うようにして最新のレコードを入手し、より大音量で迫力のある音を提供することで観客を惹きつけた。この競争の中で、次第にジャマイカ独自の音楽が求められるようになり、やがてスカやロックステディといった新しいジャンルが生まれることとなる。

また、1950年代後半から1960年代にかけて、多くのジャマイカ人がイギリスへと移住した。第二次世界大戦後の労働力不足を補うために、英国政府がカリブ地域からの移民を受け入れた結果、ジャマイカ系移民はロンドンやバーミンガム、ブリストルといった都市に定住し、独自のコミュニティを形成した。彼らはジャマイカで親しんだサウンドシステム文化をUKに持ち込み、それがのちのUKレゲエやダブの発展へとつながっていく。

スカからロックステディ、そしてレゲエへ:リズムとメッセージの進化

ジャマイカ音楽の進化は、まずスカの誕生から始まった。スカは1950年代末から1960年代前半にかけて流行した音楽ジャンルで、アメリカのR&Bの影響を受けながらも、オフビートを強調した独特のリズムを特徴としていた。スカは陽気でダンサブルな音楽として人気を博したが、1966年頃になると、テンポを落とし、よりリラックスしたグルーヴを持つロックステディへと進化する。

ロックステディは短命なジャンルではあったものの、この時期に多くのシンガーやバンドが登場し、ジャマイカ音楽のスタイルを確立する重要な役割を果たした。さらに、1960年代後半になると、ロックステディの要素を引き継ぎつつ、より重厚なベースラインと社会的・政治的なメッセージを持つレゲエが誕生する。

レゲエはラスタファリズムの影響を強く受け、抑圧や社会不正に対するメッセージを歌詞に込めるようになった。ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズピーター・トッシュといったアーティストがこのジャンルを国際的に広め、レゲエはジャマイカを超えて世界的な音楽へと成長していく。

ダブの誕生:King TubbyとLee “Scratch” Perryの革新

レゲエの進化と並行して、新たな音楽表現として「ダブ」が誕生した。ダブは、レゲエのリズムを基にしながら、ミキシング技術を駆使して作られたリミックス音楽で、エフェクト処理やリズムの分解・再構築を特徴としていた。このスタイルを確立したのが、King TubbyLee “Scratch” Perry だ。

King Tubby

1970年代初頭、King Tubby はレゲエのインストゥルメンタルバージョンを制作し、リバーブやディレイを駆使して独自の音響処理を生み出した。ボーカルや楽器のパートを抜き差ししながら、ドラムとベースを際立たせることで楽曲を再構築し、ダブという新たなジャンルの基礎を築いた。彼のカスタム機材を駆使した革新的なサウンドは、後のエレクトロニック・ミュージックやヒップホップにも大きな影響を与えた。

Lee “Scratch” Perry

ブラック・アーク・スタジオを拠点に、革新的で実験的なプロダクションを展開し、ダブの可能性を押し広げた。テープエコー、リバーブ、フェイザーなどのエフェクトを駆使し、奇抜なサウンド処理や環境音の取り入れを試みた彼の音楽は、単なるミキシングを超え、独自の芸術的表現へと昇華した。Bob Marley & The Wailers、Junior Murvin などのプロデュースを手がける一方、自身の Upsetters 名義でも独創的なダブ作品を発表。その影響はのちの UK ダブやエレクトロニカにも広がり、ジャンルを超えた音楽の発展に貢献した。


こうして誕生したダブは、単なるレゲエの派生形ではなく、音響的な実験とリズムの解体を通じて、のちのクラブミュージックや電子音楽の礎を築く重要なジャンルとなった。ジャマイカで生まれたこの音楽は、やがてUKへと渡り、新たな進化を遂げていく。

1970年代:UKにおけるレゲエとダブの誕生

1970年代、ジャマイカから移住したカリブ系コミュニティを中心に、UKでレゲエとダブが根付いていった。1950年代後半から始まった移民の流れにより、ロンドンやバーミンガムにはジャマイカの音楽文化が持ち込まれ、それがイギリス独自のサウンドシステム文化の形成につながった。

この時期、UKではサウンドシステムのイベントが各地で開かれ、ジャマイカ産のレコードが流されるだけでなく、現地のミュージシャンたちがレゲエやダブの制作を始めるようになった。さらに、パンクロックとの交流も生まれ、UKならではのレゲエ・ダブ・サウンドが誕生していった。

ウィンドラッシュ世代とジャマイカ移民の定着

1948年、英国政府はカリブ海地域からの労働力確保のため、大量の移民を受け入れた。その象徴が、ジャマイカから最初の移民を運んだ船「HMT Empire Windrush」である。こうして「ウィンドラッシュ世代」と呼ばれる移民たちは、ロンドン、バーミンガム、ブリストルなどに定住し、独自のコミュニティを築いた。

彼らはジャマイカの音楽をUKにもたらし、サウンドシステム文化を根付かせた。60年代にはスカやロックステディが流行し、70年代にはメッセージ性の強いレゲエが主流となる。UKのジャマイカ系移民にとって、レゲエは単なる音楽ではなく、アイデンティティを表現し、社会的メッセージを伝える手段でもあった。

UKにおけるサウンドシステム文化の形成

ジャマイカのサウンドシステム文化はUKに持ち込まれ、1970年代に入るとイギリス独自の発展を遂げていった。特にロンドンやバーミンガムでは、多くのサウンドシステムが登場し、街の一角やダンスホールでレゲエとダブが大音量で鳴り響くようになった。

UKのサウンドシステムは、単なる音楽の再生装置ではなく、移民コミュニティにとっての重要な社交の場でもあった。白人社会との軋轢が存在する中で、サウンドシステムは自分たちの文化を守り、共有するための空間として機能した。やがてUK独自のレゲエやダブのスタイルが生まれ、次世代のアーティストたちによって新たな音楽が生み出されていく。

ロンドンとバーミンガムの音楽シーン

UKにおけるレゲエとダブの中心地となったのが、ロンドンのブリクストンやハックニー、そしてバーミンガムのハンズワースだった。これらの地域には多くのジャマイカ系移民が暮らし、音楽文化が発展していった。

ブリクストンでは、地元のサウンドシステムが頻繁にイベントを開催し、ジャマイカの音楽が街の至る所で流れていた。ハックニーでも、移民たちが運営するクラブやレコードショップが増え、レゲエ文化が根付いていった。

一方、バーミンガムのハンズワースも重要な拠点となり、のちにSteel PulseのようなUKレゲエバンドを輩出することとなる。この地域の若者たちは、ジャマイカの音楽に影響を受けながらも、UKならではの独自のレゲエサウンドを生み出していく。

UKダブの誕生:Dennis BovellとJah Shakaの登場

UKにおけるダブの発展において、Dennis Bovell Jah Shaka の存在は欠かせない。両者は 1970 年代から活動を開始し、それぞれ異なるアプローチで UK レゲエとダブの浸透に貢献した。Bovell はプロデューサーとしてレゲエとダブをスタジオで進化させ、Shaka はサウンドシステムを通じてダブの精神を広めていった。

Dennis Bovell

レゲエバンドMatumbiのメンバーとして活動する一方で、プロデューサーとしても活躍し、UK独自のダブサウンドを確立した。彼はまた、ラヴァーズ・ロックというジャンルの発展にも寄与し、よりメロディアスで洗練されたUKレゲエのスタイルを築いた。

Jah Shaka

UKのサウンドシステム文化を象徴する存在となった Jah Shakaサウンドシステムは、ジャマイカのルーツ・レゲエとディープなダブを融合させたスタイルで、イギリス中のレゲエ・ファンを魅了した。彼のプレイは瞑想的でありながらも、圧倒的な重低音とスピリチュアルな雰囲気を持ち、UKダブのアイコン的な存在となっていく。

パンクとレゲエの邂逅:The Clash, The Slits, PiL

1970年代後半になると、UKのパンク・ムーブメントとレゲエが交わるようになった。パンクロックはレゲエと同じく反体制的な精神を持ち、社会への怒りを音楽に込める点で共通していた。そのため、多くのパンクバンドがレゲエの影響を受けるようになった。

The Clash

The Clash は 1977 年のデビューアルバムで「Police & Thieves」(Junior Murvin のカバー)を取り上げ、レゲエの影響を明確に示した。さらに 1979 年の「White Man in Hammersmith Palais」では、パンクとレゲエをより自然に融合させ、独自のスタイルを確立し始める。

そして 1980 年、「Bankrobber」ではジャマイカのアーティスト Mikey Dread をプロデューサーに迎え、ダブの手法を本格的に導入。重厚なベースラインやエコー処理など、ダブ特有の音響技術が色濃く反映されている。

この流れを受け、同年のアルバム「Sandinista!」では「One More Time / One More Dub」「The Magnificent Dance」など、さらに実験的なダブ・サウンドを展開。The Clash は 70 年代後半にレゲエと接触しながら、80 年代に入るとダブの要素を積極的に取り入れ、Mikey Dread との関係を通じてその探求を深めていった。

The Slits

The Slits は 1976 年にロンドンで結成された女性中心のポストパンク・バンドで、パンクの荒々しさにレゲエやダブの影響を取り入れ、UK の音楽シーンに新たな流れを生み出した。Dennis Bovell をプロデューサーに迎えた 1979 年のデビューアルバム「Cut」は、ポストパンクとレゲエの融合を象徴する作品として知られる。

アルバム収録曲の 「New Town」 は、レゲエ色の強い楽曲のひとつで、跳ねるベースラインと崩れそうなグルーヴが特徴的だ。ギターのカッティングやエフェクト処理がダブの影響を感じさせ、Ari Up の奔放なヴォーカルが独自の浮遊感を生み出している。

Public Image Ltd.(PiL)

Public Image Ltd.(PiL)は、Sex Pistols 解散後に John Lydon が結成したポストパンク・バンドで、ダブや実験的なサウンドを取り入れ、従来のパンクを超えた革新的な音楽を展開した。「Careering」(1979年 / 『Metal Box』収録)は、PiL の中でも特にダブ色が強い楽曲で、リズムが崩壊しそうなほどルーズなドラム、深くうねるベース、エフェクトにまみれたシンセサウンドが不穏な空間を生み出し、John Lydon の浮遊するようなヴォーカルがさらに幻惑的な雰囲気を強調している。ダブの音響処理をポストパンクに落とし込んだこの曲は、後のオルタナティブ・シーンにも大きな影響を与えた。

1970年代のUKレゲエとダブの影響

1970年代を通じて、UKのレゲエとダブはジャマイカからの移民文化として根付きながらも、独自の発展を遂げていった。サウンドシステム文化の広がりとともに、UKダブが生まれ、のちの音楽シーンに影響を与える要素が形成された。

また、パンクロックとの交差によって、レゲエは新たなリスナーを獲得し、多様なジャンルへと影響を与える存在となった。この時期のUKレゲエとダブの発展は、1980年代以降の音楽シーンにおけるさらなる進化の礎となる。

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